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文化財めぐりコース

千駄木谷中界隈散策コース(文京区・台東区・荒川区)

岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡

都指定旧跡 昭和27年11月3日史跡指定 昭和30年3月28日旧跡指定 昭和35年4月1日名称変更
 昭和44年3月27日名称変更

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六角堂

 岡倉天心記念公園と名付けられたこの地に、日本美術院が開院したのは明治31年(1898)10月15日。日本美術院は、岡倉天心を中心に、日本美術と各自作家の特長を織り込みながら、その発達応用を自在に得ることを目的に創設された美術研究団体です。橋本雅邦を主幹に、評議員に横山大観、菱田春草(ひしだしゅんそう)六角紫水(ろっかくしすい)らが名前を連ねています。

 日本美術蒐集家のW. ビゲローらの寄付によって建てられた木造瓦葺二階建ての建物は、二棟が南北に向かい合っていました。北棟には事務室、工芸研究室、集会室があり、南棟は絵画研究室に充てられました。敷地内には付属工芸場が9棟建てられ、絵画、彫刻、漆工、図案、金工などの研究や製作が行われました。

 明治31年(1898)10月15日の落成式に併せ、第5回日本絵画協会第1回日本美術院連合絵画共進会が開催、横山大観「屈原」などが出品されました。以降、日本美術院では美術や美術工芸の制作、展覧会の開催、機関誌『日本美術』の発行などを精力的に行います。しかし、日本美術院は次第に経営に行き詰まり、岡倉天心が明治38 年にボストン美術館中国・日本美術部部長に就任し渡米したことから解散状態となります。翌年には敷地を3000円で売却し、それを元に茨城県五浦に移転、谷中の日本美術院はここに終焉を迎えました。

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岡倉天心像

 現在の岡倉天心記念公園は、昭和42年(1967)、台東区により開園されました。園内には五浦の六角堂を模した記念堂が建てられ、内部に岡倉天心の胸像が安置されています。この胸像は、平櫛田中(ひらくしでんちゅう)が昭和6年に制作した作品(東京藝術大学構内に展示)の原型から鋳造されたものです。

 日本美術院院歌にある一節、「谷中うぐいす初音の血に染む 紅梅花 堂々男子は死んでもよい」という、明治期に新たな日本美術を模索し続けた画家達の気概を今に伝えています。


コラム 谷中八軒屋

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谷中八軒屋

 日本美術院が開院した明治30年代の谷中は、一面田圃の広がる自然豊かな郊外でした。明治31年10月、日本美術院の道路を隔てた向かいに、形も大きさも全く同じ、茅葺二階建ての風変わりな建物が8軒、突如姿を現しました。これは日本美術院の中心メンバーであった横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月(こげつ)、寺崎廣業(こうぎょう)、小堀鞆音(ともと)、岡部覚彌(かくや)、剣持忠四郎の8人と、その家族が住んでいたもので、通称「谷中八軒屋」と呼ばれました。
 困窮を極めた生活だったようですが、横山大観が夜更けに戸を叩いたところが下村観山の自宅で、夫人に注意されたことなど、エピソードには事欠かなかったようです。
 この八軒屋での喜劇的な生活もまた、茨城県五浦への移住により幕を閉じました。


岡倉天心記念公園の公開情報

公開日:
通年
公開時間 :
終日
料金 :
なし