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東京都文化財めぐり

浅草を歩いてみませんか
浅草散策コース

東京観光の目玉の一つ、浅草。この地は、浅草寺の門前町を中心に発展を遂げてきました。関東大震災や太平洋戦争により、近世までの浅草の街並みはほぼなくなりましたが、焼け残った浅草寺二天門や浅草神社は文化財に指定されています。

今回は、浅草寺や浅草神社など、活気あふれる浅草の街とともに歴史を感じられる 雷門や仲見世だけではない浅草の魅力をコースを設定しました。

雷門や仲見世だけではない浅草の魅力を発見してみてください。

浅草を歩こう

『鬼平犯科帳』など池波正太郎作品にもよく登場する浅草。この「浅草」という地名が初めて文献に登場するのは、鎌倉時代に書かれた『吾妻鏡』です。養和元年(1181)、鶴岡八幡宮の造営に際して良い工匠(たくみ)がいなかったため、武蔵国浅草の大工を招いた、とあります。また、建久3年(1192)後白河法皇の法要に、浅草寺から寺僧3名が鎌倉へ出仕したとの記録があり、これが「浅草寺」という寺名の初出です。中世以降、浅草寺周辺は寺領として寄進され、門前町が発達していきました。

江戸時代、浅草寺北西側は大名の屋敷地や畑地となる一方、雷門より南側には町屋が建ち並び、庶民信仰の寺として定着していきました。また、仲見世には茶屋が出店し、本堂西側の奥山では小屋掛けの見世物や曲独楽(きょくごま)などが興行されるなど、一大娯楽地として発展。嘉永6年(1853)には、植物園「花屋敷」も開園しました。

明治維新後、浅草寺境内は新政府により官収され、明治6年(1873)には日本最初の公園となり、浅草公園として東京市が管理することになりました。

明治23年(1890)に建設された12階建ての凌雲閣(りょううんかく)からは、浅草一帯を一望できました。3階から6階に芸妓100名の写真を掲げ、登覧者の投票で美人を選抜する「百美人」という企画は、人気を博しました。凌雲閣階下の道なりに軒を連ねた活動写真館では浅草オペラが上演され、熱狂的なオペラファン「ペラゴロ」が浅草公園を闊歩(かっぽ)していました。その一方で、浅草界隈では剣舞や辻講釈が随所で見られるなど、新旧混在した大衆文化が醸成されていきました。

しかし、江戸追慕と大正浪漫が混然一体となった近世以来の浅草の街並みは、関東大震災や東京大空襲により、ほぼ一掃されます。

昭和26年に浅草公園全域の公園指定は解除され、管理が浅草寺に戻されます。境内では、昭和33年の本堂を筆頭に、堂宇が次々と再建。娯楽施設では、戦時中閉鎖されていた浅草花やしきが昭和22年に再開、ひょうたん池(通称)埋立地には、劇場や遊技場が建設されました。

二度の大火を逃れた伝法院や二天門、浅草神社などが伝える江戸風情と、近代から続く6区の大衆娯楽文化から醸し出される雰囲気が浅草の魅力です。

散策順路

散策コース地図

コラム

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